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時代はモデルA、V8、リンカーン
1930年のモデルAロードスター。 モデルAの1931年版。最高出力40HP/2300rpm
モデルTにかわって登場したのが"モデルA"である。デビューしたのは1927年の10月末、モデルT以後6か月のブランクがあったわけだが、それだけ待っ価値はあった。
モデルAは、まさに当時の市場の要求する車だったからである。そのエンジンは強力で、ライバル車よりもスピ一ドが速く、スタイル的にもすぐれていた。発表後2週間以内に、40万人の人びとが予約金を支払った。
モデルAについて関心をよんだ点のひとつは、安全重ねガラスのウィンドシールドの採用だった。これが自動車の歴史のなかで、生産車に標準装備となった最初の例である。
モデルAの直4エンジンは、3個のメインベアリングをもち、クランクシャフトは炭素マンガン鋼でできていた。ピストンはアルミニウム製で、バルブはクロム/シリコン合金の耐久性の高いものだった。さらに、3速ギアボックス、ウォーム&ペッグタイプのステアリング、フーデイル式の複動式油庄ショックアブソーバー、ケーブル作動の4輪ブレーキ、熔接ワイヤホイール、盗難防止式のエレクトロロック点火方式も採用されている。モデルAには、5種のボディスタイルがあった。1928年には82万台に近いモデルAが生産され、全世界におくられた。
フォード社は、またしても隆盛期をむかえた。同時に、第1次大戦以来、ルージュ工場でつくられていたフォードソントラクターの生産は、アイルランドのフオード工場にうつされた。さらに、デンマーク、フランス、スペイン、イタリア、アルゼンチン、ブラジル、メキシコにも工場が建設された。
1929年、フォード社はアスリカだけでも16万2270人の従業員をかかえ、年間人件費は3憶ドルにたっした。この年の2月4日、100万台目のモデルAがおくりだされ、12月1日にフォード社は日給を7ドルにひきあげた。この年には、モデルAのタウンカーバージョンも発表されている。価絡1200ドルの、ショーブァー用の屋根のついだ車だ。もっとも安いモデルAは、モデルAテューダーで、価格は500ドル、色は灰色、グリーン、黒の3種類あった。この時期はフォード社の黄金時代で、1930年8月には300万台目のモデルAがラインをはなれ、日産9656台という、かつてない新記録を樹立、1930年のおわる前には、400万台目のモデルAがつくられた(9種類のモデルが選択可能だった)。
しかし31年には、ややかげりが見えはじめた。この年500万台目のモデルAがつくられたが、販売台数は減少の傾向をしめしはじめたのである。ふたたびニューモデルの必要が痛感された。フォードの切り札は、またしてもセンセーションをまきおこした。それは価格の安い、V8エンジンつきの車だった。もちろんこれは市場にでた最初のV8車ではない。だがフォードV8は、一般大衆のための最初のV8車だったのである。1932年、プォードV8はデビューした。万一の失敗に対応するため、これと並行して、”モデルB”も発表されていたが、V8はモデルBよりはるかに売上げをのばした。1932年の販売台数は、モデルBの13万3539台にたいし、V8は29万8647台であった。4気筒のモデルBは495ドルで、V8はそれより10ドル高いだけだったからでもある。1933年には50万台をこえるV8が売られた。さらに34年には、万全の態勢がとられ、V8のシャシーに14のことなったボディスタイルが用意されるようになった。
1923年のフォードタイプ18 V8(ドイツフォード)
1932年のモデルBに搭載された3.6LV8エンジン。最高出力65HP/3400rpm
1934年6月19日、フォードV8は100万台にたっし、翌年には200万台になった。しかしこの時期で注目すべきは、傘下の「リンカーン社」が、10月5日にリンカーン12気筒車"KB"を発表したことである。価格はフォードV8の約2倍だっだ。フォード社がリンカーン社を買収したのは1922年のこと、エドセルフォードの強い進言によるといわれる。エドセルは美しく仕上げられたリンカーンにほれこんでいた。そして父ヘンリーにばかにされながらも、自分のイメ一ジでリンカーンをつくろうとしていた。1928年の"Lシリーズリンカーン"が彼のアイデアを生かした最初の車であった。最高出力90HP/2800rpmの、高い信頼性をほこった車だ。乱暴な連転にもたえたため、1920年代にはぴこったギャングだちが、このんでこの車を使用したので有名である。後期のLシリーズは.タイアに注入するためのエアコンプレッサーを内蔵しており、ほかに点検灯、皮ばりのシート、カーペットが標準装備で、価格は4200ドルだった。さらに高級なタイプとしては、ブラン製ボディのカブリオレブローアムもあり、これは7000ドル以上の値段だった。V12KBは、このLシリーズをうけついで発表されたニューモデルであった。 65°V12エンジンが搭載され、無理なく150HP/2400rpmの出力を発生した。これとV8エンジンつきの"KA"は、ホイールベースをかえ、エンジン出力を向上させながら、1940年代まで生産された。これらのほとんどすべては、ブラン、ジャドキン、ディートリッヒ、ウィロービー、そしてもっとも格式の高いルバロンといったコーチビルダーの製作したボディをつけていた。そして1935年には、有名な"リンカーンゼファー"が発表されている。1950年代までのアメリ力車のデザインに大きな影響をおよぼした車だ。アメリカ大衆はこれにより、流線形ボディにしたしく接することになったわけである。ただし、リンカーンゼファーはそれほど売れたわけではない。この間フォードV8はよく売れ、フォードトラックとおなじ時期に300万台目の生産がおこなわれた。この時期から第2次大戦にいたるまで、フォード社は成功につぐ成功をかさね、1938年には、中級モデルのマーキュリーも登場している。外見上はフォード社は世界に君臨するかに見えた。だが、内部の統制はみだれつつあった。社長のエドセルフォードはほとんど実権をもたず、大御所H.フォードにとりいっていたハリーベネットなる人物が、経営の主導権をにぎっていたのだ。ベネットは、このような大企業をひきいていくにふさわしい人物ではなかった。彼はボクサーあがりで、ことあらばすぐにその腕力をふるいたがった。彼の性格は、ものしずかで教養のあるエドセルとはまったく対照的だった。それなのになぜか、H.フォードは、ベネットの助言のもとに政策決定をおこなうことをしつように主張した。彼はまた経理士がきらいだったため、同社の強固な財政構造にもひびがはいりはじめた。そしてこの時期、ゼネラルモーターズはフォード社の業績をぬくようになった。第1次大戦の直後、フォード社のシェアは60%だったが、第2次大戦終了時には、GMは50%、クライスラーが20%のシエアをしめていた。このことは、フォード社が1930、40年代に低落をつづけたことをしめしている。経済専門家の意見によれば、V8フォードはよく売れたものの、フォード社はこれらの時期に実質利益をほとんどあげてはいなかったという。たとえば、1937年の収支決算によれば投下資本あたり、1%の利益しかあがっていない。さらに悪いことに、H.フォードは労働組合をこのまず、このため従業員とのあいだにはげしい衝突がくりかえされ、しだいに彼らの信頼をうしなっていった。
日本メール・オーダー発行 世界自動車大百科(1982)より
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